オナガワエフエムこれまでの歩み

2011年3月11日 14 時46分 東日本大震災発生

15 時 32 分 女川町に津波到達死者:574 名(平成 27 年 3 月 1 日現在)
死亡認定者:253 名(震災により行方不明で死亡届を受理された方)
住家被害数住宅総数:4,411 棟 そのうち(一般的な家屋)3,934 棟(89.2%)全壊
避難状況最大 25 ヶ所 5,720 名

3月31日 災害FM開局を発案

直後からから故郷・女川町と現在住む東京を往復し、支援物資を届けたり、情報ボランティアとして活動した代表の松木達徳が、各避難所間で情報格差が生じている状況を見たこと、また先行して同じ宮城県内の山元町で住民有志が臨時災害放送局第一号となった「りんごラジオ」を開局したニュースを知り、これを女川町でも開設することを発案し、行動開始。同日、それを知った東京の放送作家 大嶋がそれに応じ、以降この二人を中心に多くの東京のボランティアスタッフを巻き込んでプロジェクトがスタートする。
松木は女川町との調整や現地で放送を行うスタッフ探し、大嶋は機材の調達や総務省などとの調整を担当。4月中旬より現地で準備・スタッフ訓練を開始
女川町や国などからの資金補助は一切ないため、当初はすべてを東京チームの持ち出しで運営。(のちに助成金や寄付にたよって運営するスタイルへと移行)

4月21日 女川さいがいFM開局

避難所となっていた女川第二小学校(当時)校庭におかれた四畳半ほどのプレハブをスタジオとして79.3MHzで放送開始。
開局にあたっては各避難所内や被災から逃れた家を廻り述べ2000台からのラジオも配布し、また各避難所内にリクエストが寄せられるカードとボックスを設置した。

最初の番組は開局直前(4月14日)に避難所慰問に訪れた俳優の渡辺謙さんへのインタビュー。避難所となっていた体育館前でたき火を囲みながらの公開録音形式で収録を行った。
→こちらの様子はアーカイブでお聴きいただけます。

番組内容

一日三回の生放送番組が放送開始。番組名は女川町の「いま」を伝えるという意味と、当時流行しつつあったTwitterから引用した「おながわなう。」とし、
出演・制作したのは避難所での呼びかけに応じた18才〜37才までの11人
二人ずつペアを組み、ローテーションで一日3回の生放送を担当。自らも被災者であったが、町の復興につながるなら・・とボランティアで参加し、それぞれディレクター役、ミキサー役、パーソナリティーなどを務めた。当初の2か月は東京のメディア関係者らが入れ替わりで滞在あるいはSkypeを用いたリモートワークで、放送未経験の彼らが放送をできるように支えた。

5月始まった放送を聞いて、自分たちも参加したいと3名の高校生が参加。
以降、高校生アナウンサーとして終了まで述べ10名が参加し、週末・休日の放送を担当

6月には、町内で復興イベントや小学校の運動会などの実況中継、イベント司会なども行うようになる。
→小学校の運動会実況中継 こちらから一部お聴きいただけます
→女川町中学校合唱祭 こちらからお聴きいただけます。

7月5日 NHKクローズアップ現代「女川さいがいFMの3か月」放送

開局から数多くの新聞・テレビ・ラジオで被災地で被災した住民自身がパーソナリティーを務めるラジオ局が誕生したと取り上げられる中で、初の密着ドキュメント番組が放送され、話題となる。このドキュメントは後に「がんばっぺラジオ」というタイトルの単独番組としてシリーズ化され、2016年まで続編3本が制作・放送された。
またこの頃、放送のインターネット同時配信(サイマルラジオ)がスタート
全国からパソコン・スマホで聞けることから、震災後、町を離れた町民、出身者、ボランティアなどがネット経由で放送を聞くようになる。

最初期のスタジオ(第二小学校2階が災害対策本部、左に見えるのがボラセン)

2012年3月18日 震災から1年、女川町商店街 復幸祭がスタート

三月が悲しい記憶で埋まってしまうのでは無く、逆にそれを復興への力へ変えたいという町民有志の想いから、毎年三月に実施する復幸祭がスタート。津波のおそろしさを後世に伝えるため、水曜どうでしょうとのコラボトークショーなど様々な企画を立案現在も「春のまつり」として毎年3月に継続している。
→女川町復幸祭2012 トークライブ 一部がお聴きいただけます。

2012年4月 女川町地域医療センターへスタジオを移転

避難所が解消したことから小学校に間借りしていたスタジオの移転を迫られ、代わりの場所がないことを理由に閉局も検討されたが、町内外のリスナーから放送継続を望む声が女川町役場・FM双方に殺到した結果、移転・継続が決定。
(移転に伴い、送信所・アンテナの移設が必要となったため、4月20日から7月2日の間、放送を休止した。)移転先は旧女川町立病院(堀切山、現地域医療センター)の駐車場内で「輝望の丘スタジオ」と名付けられた。人々が集まる場所でもあり、特に昼の生放送時は来客で人だかりができるようになった。

2015年4月まで使用した輝望の丘スタジオ

2012年7月2日ラジオ放送の再開 番組改編

避難所から仮設住宅へ移りつつあり、仮設商店街など生活の復興へ向けた動きが加速したことから、放送内容を見直し、一日3回だった生放送を一日一回、1時間半の生放送へと切り替え、その代わり、日に何度かその再放送や新たに立ち上げたいくつかの番組を編成するスタイルへと切り替えた。2011年11月に新たに選ばれた須田善明町長も週一回のレギュラー番組、また12月には港町女川の水産業の復興をアピールする「産地直送!おながわ加工研ラジオ」」などがスタートする被災した町民が避難所から仮設住宅へ移り、また仮設商店街「きぼうのかね商店街」が整備されたことで生活の復興がはじまったことから、放送内容を大幅に見直し、朝・昼・晩と一日3回だった生放送「おながわなう。」を一日1回昼のみにリニューアル開局時からできるだけ多くの町民をゲストや取材・インタビューし、出演してもらってきたが、ここからはさらにたくさんの「声」を届けたいと毎日一人の町民をゲスト出演またはインタビューし紹介する「この人さ聞いてみっちゃ」がスタート。
さらに新たにいくつかの番組を立ち上げ、本格的な改編を行った。 前年11月、震災後に選ばれ、就任した須田善明町長自らが出演し、自身の言葉で町民に語りかける番組「THE VOICE」、さらに12月に町内で漁業・水産加工業に携わる当時30代の若手が集まって担当したお魚系バラエティ番組「産地直送!おながわ加工研ラジオ」などがスタート。特に「加工研ラジオ」は全国38のコミュニティFM及び東北の他地域の災害FMにもネット放送していただき、ここから町民のためのご町内向け放送から一歩進めて、被災地女川町の復興の「いま」を外に伝えるという取り組みもはじまった。
→当時の録音アーカイブ
→当時のチラシ

2013年3月11日文化放送「くにまるジャパン」が女川同時生放送

震災2年目を迎えて、東京の文化放送の看板番組「くにまるジャパン」を女川の輝望の丘スタジオから、早朝から午後までの長時間放送。
文化放送は開局当初から東北の災害FMに対して無償で流せるコンテンツとしてアナウンサーによる読み聞かせ番組「お話玉手箱」を提供していただくなどの交流があり、各番組でも電話でつなぐなどして継続的に女川さいがいFMの活動を応援いただいてきました。また時を同じくして、ニッポン放送から「マイプレイリスト」、福岡LOVEFMからは「月下虫音」など民放・コミュニティFMからのコンテンツ提供や女川さいがいFMのスタジオから放送するなどコラボ企画を行うようになりました。

2013年3月24日 初となる「津波伝承 復幸男」が開催

1000年に一度の大災害なら、さらに1000年先に伝えなければ・・という想いを込めて、兵庫県西宮神社で毎年行われている神事「福男」にヒントを得て、津波がきたら、まず高台へ走って逃げろ!!と、坂道をかけあがって高台へ登ることを競う「津波伝承復幸男」がスタート。一番福ならぬ一番復幸男を目指し、毎年多くの方にご参加いただいています。

第一回の復幸男は町内の漁師ダイバーが獲得

2013年3月25日  ケロロ軍曹との友情コラボスタート(第二回女川商店街復幸祭)

昨年に続いて開かれた商店街復幸祭にあわせて、人気漫画・アニメキャラクター「ケロロ軍曹」作者の吉崎観音さんが来訪。女川さいがいFMをネットから聞いて応援してくださっていたことがきっかけでスタジオの壁に直接大きな絵を描いてくださったり、ステージ上で女川のローカルヒーロー「リアスの戦士イーガー」と「ケロロ軍曹」のオリジナルショーを声優さん参加の生アテレコで行いました。ケロロ軍曹と女川町のコラボ企画は、さいがいFMが終了した今も継続されています。

2013年3月26日 NHK特集ドラマ「ラジオ」放送

前年放送のドキュメント番組「がんばっぺラジオ」を見た脚本家の一色伸幸氏が実際にスタジオを訪ねてきたことがきっかけとなり、これまでの様々なエピソード、特に高校生アナウンサーの一人だった某ちゃんがブログで書いた文章をもとにテレビドラマ化。撮影は2013年1月に実際の女川町で行われ、仮設住宅などもすべて本物を使用。エキストラもほとんどは実際に被災した町民が登場することから被災地のリアルが伝わると話題になり、文化庁芸術祭大賞、ギャラクシー賞などテレビドラマに関する賞を多数受賞。さらにBS/地上波あわせて6回の再放送が行われた。反響は大きく、放送後、ロケ地探訪や見学者、ラジオ局運営費の寄付も増え、その後3年にわたり継続するうえでも役立った。
→さいがいFM当時のドラマ解説ページ(※情報は放送当時のものです。)
→特集ドラマ「ラジオ」の一部はこちらでご覧いただけます
→特集ドラマ「ラジオ」のDVD/ブルーレイはご購入いただけます。

2013年5月15日 ももいろクローバーZとの交流スタート

女川出身の俳優・中村雅俊さん、歌手の倉木麻衣さん、一青窈さん、石川さゆりさんなど様々なアーティストや有名人が応援や取材を兼ねてスタジオを訪れ、出演していたが、人気アイドルグループ「ももいろクローバーZ」からはドラマ「ラジオ」をきっかけに継続的な支援をしたいと連絡をいただき、お友達になることに、番組への継続的な出演だけでなく、町内で行われる復興イベントへの出演や小学校へも何度も足を運び、子供達と一緒に歌って踊ったり、一緒に給食を食べるなど様々な形で交流を深めた。特に2015年春に実施したJR女川駅の再開を祝したコンサートでは5000人を動員。これが現在も続く「ももクロ」の地域振興イベント「春の一大事」開催へと繋がった。この交流はさいがいFM終了後も続いており、現在もほぼ毎年一回のペースでメンバーが訪れている。

2014年4月番組内容の強化 、地域のみんなが出るラジオへ

最初はラジオ未経験だったスタッフも自信が出てきて、町内の様々な立場の人にパーソナリティーを担当する新番組が増加。女川町の仮設商店街の面々が週末の夜に集まって語り合う秘密の部室番組「クラゲラジオ」、女川〜石巻地域でお仕事を探す人に最新の求人情報を紹介する「仕事かわら版通信」、この年限りで廃校となる宮城県立女川高校の生徒たちが担当した「女川高校放送部」をはじめ多彩な番組が登場!曜日のコーナーとして、女川町のみんなが出るラジオ局へとパワーアップした。


牡鹿半島フォークジャンボリー~大人のたまり場

長年、女川第一中学校の国語科教諭を務め、東日本大震災では次女みずほさんが石巻市大川小学校を襲った津波で犠牲となった佐藤敏郎先生が、地域のリスナーや元教え子たちを励ましたい、みんなで集える「たまり場」を作りたいとギター片手にマイクに向かった「佐藤敏郎の大人のたまり場」は人気番組に、毎週収録を見学に町内のリスナーが多数やってきてそのまま参加していました。
2014年4月4日~2016年3月迄
→佐藤敏郎の大人のたまり場 第50回放送分一部がお聴きいただけます。
→大人のたまり場とTSUNAMIを巡るいきさつについて

2015年5月1日 スタジオを仮庁舎横のトレーラーハウスに再度移転

女川町地域医療センターの工事に伴い、再度スタジオを移転。移転時にプレハブから、町に寄贈いただいていたトレーラーハウスへと代わった。こちらは現在もJR女川駅駐車場内に設置されており、今もスタジオ兼現地事務所として機能している。

2016年3月26日 ゆぽっぽでTOKYO FM桑田佳祐の優しい夜遊びを同時生放送

5回目となる復幸祭の当日、サザンオールスターズの桑田佳祐さん、原由子さんらが「女川さいがいFM」に最後の激励に駆けつけ、女川駅内2階休憩スペースシークレット50名余りのリスナーを集めてのライブ。その様子は全国にラジオで生中継され、一部音源は公式にCD化されている。

2016年3月29日 女川さいがいFMとしての放送終了

当初2か月の予定が延長を重ね、また全国からの応援を得て、5年間にわたって継続した女川さいがいFMであったが、臨時災害放送局という性質上、復興がある程度進んだ段階で終了せざる得なかったこと、当初から参加していたスタッフが進学や家庭の事情で町を離れ離脱していたことなど複数の理由から放送終了を決定。3月27日には5時間の生特番、また29日の最終放送を持って閉局した。
お別れ放送には町内だけでなく全国からファンが詰めかけたほか、最後の放送では以前からリクエストいただきながら、流せずにいたサザンオールスターズの楽曲「TSUNAMI」をO.Aしたことも話題となった。(28日は終了特番の再放送)

2016年4月3日 新生オナガワエフエムスタート

さいがいFM終了後、ただちに一般社団法人オナガワエフエムとしてリスタート。さいがいFM時代の番組タイトル「おながわなう。」を引き継ぎ、改めて週一回のラジオ番組「OnagawaNow」をTBC東北放送ラジオとのコラボでスタート全国のコミュニティFMでもネット放送された。(~2022年3月まで)
また同月に発生した熊本地震では、益城町・御船町に駆けつけ、「OnagawaNow」を現地から取材・放送したり、同町に開設された災害FMへ機材や番組の提供など支援も行った。ここから災害FMのレガシーを活かした活動を行うという意味で、災害FMで育成した人材とネットワークを活かし、復興が進む女川町のPRを行う対外的な広報活動と、次なる被災地で災害FMが開局する際には支援を行うという現在の二つの柱での活動がはじまった。

2018年7月3日 放送文化基金賞受賞

災害FMからその後の活動に対して、第44回放送文化基金賞の個人・グループ部門を受賞

2018年9月19日 むかわ・厚真災害FM立ち上げ

2018年9月6日に発生した北海道胆振東部地震で、総務省北海道総合通信局及び日本コミュニティ放送協会北海道地区協議会からの要請を受け、被害の大きかった厚真町及びむかわ町に入り、二つの地域での災害FM立ち上げを支援、むかわ町では実質的に開局から閉局までの運営代行も行った。
むかわ町は9月19日から9月30日の期間放送、厚真町は2020年12月29日に閉局

2020年11月7日 女川つながる感謝祭の企画立案

コロナ禍で、全てのお祭りが中止になった女川町で、「今、君に見せたい・届けたい」をテーマにオンライイベントを企画しました。
http://2020live.onagawafm.jp/

2022年3月末でラジオ番組制作をいったん終了

さいがいFM時代から続けてきた「おながわ☆なう」シリーズ及び女川町での番組制作をいったん終了。スタッフが本業に軸足を戻したいなどの理由による。以降は年数回、女川町のイベントがある際などに限定的な活動を行うのみに

シリーズ最後となった、「おながわなう復幸ラジオ」21年4月から22年3月終了

2022年7月24日 おながわみなと祭り、12年ぶりの復活

2022年、12年ぶりに復活した「おながわみなと祭り」コロナ禍が完全に明けてない事もあり、YouTube中継を担当しました。以降は毎年「おながわみなと祭り」の生中継を担当しています。
おながわ四季の祭りCH

2024年秋、能登半島地震被災地支援のためのプロジェクトスタート

能登半島地震発災直後から相談を受け、避難所でのラジオ配布なども行ってきたが、改めて輪島市での臨時災害放送局立ち上げ・運営支援を行うこととなり、臨時災害放送局においての活動再開

「まちのラジオプロジェクト」をスタート

2月23日にはオナガワエフエムスタッフと北陸地区のコミュニティFM関係者の合同チームが機材・人を送り込んで、まず実験放送を行い、これが好評であったことから6月からの正式な開局を目指している。1〜数年間、地域の復興を支えるための放送を行う予定

→まちのラジオプロジェクト公式サイト